カンタベリー (Canterbury) とは?

カンタベリー (Canterbury) はイギリスの都市の一つである。
イングランド南東部ケント州東部に位置し、北海に面している。
人口4万2000人あまりの小都市であるが、英国国教会の総本山カンタベリー大聖堂があることから、
英国の歴史と伝統にとってはきわめて重要な都市である。


歴史

6世紀の終わりごろからグレートブリテン島(ブリタニア)にアングロ・サクソン人の王国がいくつか建設される。

597年に教皇グレゴリウス1世の命を受けて修道士アウグスティヌス(のちのカンタベリーのアウグスティヌス)を中心して修道士団がブリタニア伝道に赴く。
ケント王国(いまのケント州)の王エセルバートは彼らを好意的に迎え入れ、布教に助力したことから、ここがブリタニア布教の拠点となっていく。

601年に修道士アウグスティヌスが初代カンタベリー大司教に就任。以来、カンタベリーはイングランドのキリスト教の中心になる。

その後ノルマン・コンクエストなど、イングランドの波乱の歴史の中にあっても、カンタベリーは大司教座のある町として権威を高めていく。

1095年にはウィリアム2世と叙任権闘争を起こし大司教が亡命することになった。

1164年カンタベリー大司教トマス・ベケット、裁判権を巡ってヘンリー2世と対立、亡命。

1173年トマス・ベケットは帰国するが、カンタベリー大聖堂内の祭壇で祈っているところをヘンリー2世の騎士に暗殺される。

同年、ローマ教皇はトマス・ベケットを殉教したとして列聖する。

以後、聖トマス・ベケット殉教の地として、「カンタベリー詣で」と呼ばれる「巡礼地」にカンタベリーは位置付けられ、多くの巡礼者が訪れるようになる。

1387年にジェフリー・チョーサーは「カンタベリー物語」を著している。

1534年にヘンリー8世が離婚問題をきっかけに教皇と対立すると、ヘンリー8世は「国王至上法」を出し、カトリックと絶縁。

これに対し、カンタベリー大司教はヘンリー8世の離婚を許可する独自の判断を出した。

この結果、カンタベリー大司教はローマ教会から事実上分離し独自の路線を歩むことになる。

1559年のエリザベス1世の「統一令」によってカンタベリー大司教座はカンタベリー大主教座と改められ、英国国教会の総本山の地位を獲得することになる。


教育

ケント大学やチョーサー・カレッジなどの教育機関があり、多くの学生が学んでいる。

また、世界最古の現役の学校の1つと評されるキングズ・スクールもある。

俳優のオーランド・ブルームはここの出身。

パブがたくさんあり、学生も多い。

留学するには最高の場所で、様々な国の文化を学ぶことが出来る。



 大山宗伯東洋医学記念館 Link