大山 巌
(おおやま いわお)
元老 元帥陸軍大将公爵

大山巌元帥はその大らかで親しみやすい人間性で、歴代の軍人の中でも人気の高い存在である。

迷雲頑霧據崚嶒勁旅
環何掃流賊




  



大山 巌(おおやま いわお)
薩摩の人 西郷南洲翁のいとこ 山川捨松の夫
天保13年(1842)~大正5年(1916) 陸軍軍人 政治家
元老 元帥陸軍大将公爵

迷雲頑霧據崚嶒勁旅
環何掃流賊

迷雲頑霧は崚嶒(けわしき)に據(よ)る
勁旅は環る 何んぞ掃かん 流賊 未だ能たわず。
迷雲頑霧:雲の中や先の見えない霧のなか
勁旅:強き軍兵、
環:めぐるや囲むの意あり、
巡察:見歩くの意あり

迷雲頑霧は、雲や霧のことであるが、ここでは敵陣のことであろう。
敵兵は、深い霧や雲に隠れてなお崚嶒(りょうそう)に拠って手を拱(こまね)いている。
我が強き兵は、敵を殲滅しょうと環るが、流賊、未だ掃討することが出来ない。

大山巌は、満州軍総司令官として、旅順、遼陽、沙河(さか)、黒溝台(こっこうだい)、奉天会戦と戦い抜くが、その時の述懐であろう。
奉天会戦では、日本軍25万、ロシア軍37万の兵が対峙し、双方で死者5万人、負傷者11万人が出た世紀の決戦であった。
大山巌は、西郷さんの従弟であるが、山川捨松を後妻に迎えている。日露の戦いでは20万人以上の軍隊を率いた。
近代世界史の中で、これほど赫々たる戦果をあげ、世界の耳目を集めた戦いはない。

大山巌は、薩英戦争、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争と、5つの戦争に従軍した。
薩英戦争では、スイカ売りに化けて英艦に乗艦して切り込みを懸けようとした。
江川塾で砲術を学び弥助砲を発明し、戊辰戦争では新式銃隊を率いて、鳥羽伏見や会津などの各地を転戦し倒幕に邁進する。
明治4年から7年まで再度渡欧しフランスで軍政と砲術を学ぶ。西南戦争では西郷軍と戦う羽目になり、以後、鹿児島には帰らなかったという。
日清戦争では第二軍司令官として出征、旅順口などの諸作戦で戦功をたてる。

大山巌元帥は、日露戦争の功で、ナポレオンと並び称される英雄となり、ダグラス・マッカーサーは自室に大山の写真を飾ったという。
九段坂にある大山巌元帥の銅像は大東亜戦争に負けたとき溶かされなかった。マッカーサーの命令で残ったのである。
大山巌元帥のエピソードでよく語られることは、 日露戦争総司令部の側近、福島安正少将の談、
「将に将たる人とは此の如き人、側で敵の大砲の弾が破裂しても顔の筋一つ動かない、緊急の報せを持参しても動じたことがない。」
大山巌元帥の顔に、喜怒哀楽を読むことは出来ない。 陣中では沈着寡黙、上下の隔てもなく、丁寧な態度で接する」

大山巌元帥の死は、大正5年12月10日のことだ。 国葬は17日に行われている。
ロシア大使館付武官のヤホントフ少将が、大山家を訪れ、全ロシア陸軍を代表して弔詞を述べ、大きな花輪を自ら霊前に供えたという。
かつての敵国の武将から丁重な弔意を受けたのは、大山巌と昭和9年に亡くなられたの東郷平八郎の二人だけであろう。

大山宗伯東洋医学記念館 蔵書:
元帥公爵 大山巌
(年譜、付図、マキノ書店)



大山巌 元帥 1842年~1916年
元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵。
武士、政治家、元老、軍人。通称は弥助。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。
日本陸軍の創成期から日露戦争にかけて活躍した軍人。同じ薩摩藩出身の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた。
政治的野心や権力欲は乏しく、元老の中では西郷従道と並んで総理候補に擬せられることを終始避け続けた。