大山宗伯東洋医学記念館蔵

迫力のある 古い中国の絵画 肉筆二枚組

東洋医学(漢方薬・鍼灸)発展の二大功労者

「始皇帝」と「西太后」

サイズ
絵画:108.5p、57.5p、紙本×2
額:縦122p、横71p、厚さ2p×2










大山宗伯東洋医学記念館蔵

迫力のある 古い中国の絵画 肉筆二枚組

東洋医学(漢方薬・鍼灸)発展の二大功労者

「始皇帝」と「西太后」

サイズ
絵画:108.5p、57.5p、紙本×2
額:縦122p、横71p、厚さ2p×2



大山漢方堂薬局 蔵書

「漢方道」



漢方(漢方薬・鍼灸)とは、
秦の始皇帝が「不老不死」を求めて研究を重ね
清の西太后が「美容」のために完成させたと言われる
中国5千年の歴史が生んだ秘方である。





大山漢方堂薬局 所蔵 DVD
「王様の漢方」

万里の長城と漢方医学(漢方薬・鍼灸・薬膳)
中国五千年の歴史が生んだ
「美容(西太后)」と「健康(始皇帝)」の秘方
を惜しみなく開陳する


漢方という言葉は、日本語で、中国語には存在しない。
中国では中医(中国医学)と呼び、西洋医学と区別している。
漢方は、様々な民間療法をベースに中国歴代皇帝の健康維持のために研究と臨床を重ねてまとめられていった。
中でも秦の「始皇帝」が不老不死の仙薬を求めて御殿医たちに命がけで研究させたことで、健康の錬金術として大きく発展し、
清の「西太后」がそれを女性のための美容術に進化させ完成させたといわれている。

漢方医学の古典
約2000年前に書かれた医学書
「黄帝内径」「傷寒論」「金貴要略」が、
その漢方の考え方をまとめた教科書とされている。

漢方と日本との関係は深い
歴代皇室も漢方医を御殿医として招き漢方医療を用いてきた。
994年に中国から日本の朝廷に献上された全30巻の「医心方」は、古代鍼灸医学の成書といえるもので、
日本では重要文化財に指定され国立博物館に保管されている。






始皇帝

始皇帝(しこうてい)は、中国秦の王(皇帝)。
始皇帝(シーホワンディー、ShD Huangdi)、または秦始皇(チンシーホワン、Qin ShD Huang)という。
もともと秦の王であり、紀元前246年 - 紀元前210年の間在位して初めて中国を統一し、
紀元前221年から中国史上はじめて皇帝と称した。

統一

戦国時代には、七国の君主すべてが王を名乗っていた。
始皇帝は、中国全土統一という大事業を成し遂げた後の新時代には、
そのような旧来の称号はふさわしくないと考え、家臣たちに新しい称号を考えるように命じた。
家臣たちは、「むかし天皇(てんこう)、地皇(ちこう)、泰皇(たいこう)の三皇がおり、
その中で泰皇が最も尊かったといいます。
陛下はこの泰皇の名を取り、新しい称号にすればよいと存じます」と言った。
しかし、始皇帝は以前にあった名前を使うことが気に入らず、
「泰皇の泰を取り、太古の帝号を付け皇帝と号することにする」と宣言した。
始皇帝は、民間人の武器所持を禁じ没収し、
中国が一つになったことを宣言するために、それを溶かして巨大な像を作った。
さらに度量衡(度(長さ)量(体積)衡(重さ)の単位)、貨幣、車の幅を統一した。
また文字では、秦で使われていた漢字を全国で使うように定めた。
そして行幸を重ね、全国の交通の整備を進めた。
ここに、後世の統一王朝の範となる、精密で合理的な支配体制を持つ国家が誕生した。
始皇帝は自らの領土を大行列を引き連れて巡遊することを好んだ。
この巡遊は全部で5回に及び、全国の交通網整備を進めた。
この巡遊には、後の天下の覇権争いを行う項羽と劉邦が見学しており、
項羽は「いずれは天下を奪い取る」と述べ、
一方の劉邦は「男はああなりたいものだ」と述べたと伝えられている。
紀元前213年に李斯の進言により、周王朝の再興を願い秦王朝を批判する儒者達の書物を焼き払わせた。
ただし医療や農業などの実用書は許した(焚書)。
翌年に不老不死の仙薬作りを命じていた侯生と盧生が、仙薬ができないことで恐れて逃亡した。
怒った始皇帝は咸陽の学者たちを取り調べて、460人を穴埋めにした(坑儒)。
このとき、恐れた学者たちは互いに罪をなすりつけ合った。
後に、長子の扶蘇が始皇帝のやり方に対して諫めたが、
始皇帝はこれに怒って扶蘇を北方の蒙恬の元へと送り、防衛に当たらせることにした。

「不老不死の漢方薬」

始皇帝は生まれつきあまり体が丈夫ではなく、そのため漢方薬の研究にも非常に熱心であった。
統一したころから不老不死を求めて、いつも方士(漢方の達人)を傍に近づけるようになった。
始皇帝が可愛がった方士(漢方の達人)の中に、侯生と盧生がいるが、特に有名なのは徐福である。
始皇帝は、2度目の巡遊の途中、斉に立ち寄り、徐福に東にあるという蓬莱の国へ行き、
仙人(仙薬を造り、不老不死)を連れてくるようにと命じた。
*この蓬莱は、実は日本の事を指していて、実際に、日本各地に徐福の最期の地といわれる場所がいくつも存在する。
徐福は、最初から不老不死の仙薬などできるはずはないと思っていたらしく、
「徐福は秦を偽って薬を取りに行くと言い若い男女と共にその土地で老いた」と言う、話もある。

秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、
始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、
五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり戻らなかったとの記述もある。

青森県から鹿児島県に至るまで、
日本各地に徐福に関する伝承が残されている。
徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市などが有名である。

徐福が逗留したとの伝承が残る佐賀市金立(きんりゅう)山には、
徐福が発見したとされる「フロフキ(名前の由来は不老不死か?)」という植物が自生する。
フロフキは、カンアオイ(寒葵)の方言名で、金立地区では、その昔、根や葉を咳止めとして利用していたという。


かつて人材を見極めることに驚異的な鋭さを見せた始皇帝も晩年にはこのような人物によいように騙されていた。
方士以外でも、始皇帝は悪名高い宦官趙高なども身辺に近づけるようになった。


方士

方士とは、つまり方術の士のこと。
方術とは、神仙道(不老不死の仙人になる法)や医術(東洋医学、漢方薬、鍼灸、気功など、)をさしている。
有名な話は、「方士が始皇帝に、斉や燕で、勃海の海中に蓬莱、方丈、瀛州の三神山があって、
神仙(山の仙人)が住み不老不死の漢方薬があると、密かに語られていた」という話、

方士のなかでは、始皇帝によって三神山を探しに派遣された徐福、
武帝に不老不死への方法を説いた李少君などが有名である。
後漢の時代になると、方術は神仙道や医方術ばかりでなく、
黄老・天文・五行・巫術・呪術・讖緯(しい)など多くの要素を包含するようになり、
方術はまた道術とも呼ばれるようになる。そしてこれらの術を行うものは道士と呼ばれ、
しだいにこのことばが普及して方士に代わるようになっていく。


始皇帝は咸陽周辺の数百の宮殿を復道・甬道でつなぐと、あまり表に出ず、趙高などを通して命じることが増えた。
元より体が強くなかった始皇帝は、方士が、仙薬と偽り飲ませた薬(水銀という説がある)でさらに体を悪くしたと思われる。
紀元前210年に5度目の巡遊を行い、みずから海へ出て大魚を射殺したが、その直後に発病。
咸陽へ帰れないまま、巡遊の途中で死去した。
死去したことは趙高によって巡遊の旅が終わるまで隠され、始皇帝の遺体を乗せた車が死臭で臭うことになると、
趙高が始皇帝の車の後ろに魚の干物を乗せた車を走らせ、必死に始皇帝の死を隠した。
始皇帝は長子の扶蘇を跡継ぎとする遺言を趙高に渡していたが、
扶蘇が二世皇帝になることで自らの身が危うくなることを恐れた趙高と李斯が結託して、
胡亥が跡継ぎとなる遺言を捏造した。
始皇帝が死んだ翌年には陳勝・呉広の乱が起き、秦は滅亡へと転がり落ちていく。
始皇帝の子孫は、二世皇帝の胡亥の権力を脅かすとして、
趙高らによりあらぬ罪を着せられて胡亥以外の子孫のほとんどが処刑され、
また、胡亥死後に秦王となった子嬰も秦を下した項羽によって処刑されて、根絶やしにされた。

始皇帝は大土木事業を好み、これが外征への負担と並んで民衆を圧迫したため、暴君とされる理由の一つとなっている。
ただし、万里の長城建設は必要性の高い事業だった。
匈奴は始皇帝の少し後の時代に冒頓単于が立って強大になり、秦を倒した前漢に大勝している。
その前から匈奴が強勢になりつつあったからこそ、長城を築き、蒙恬に討たせたと言える。

しかし、首都咸陽の大拡張工事、美女を三千人集めたという阿房宮(「阿呆」の語源と言われる)、
1974年に一部分である兵馬俑が発見されて、あまりの巨大さに研究者を驚倒させた始皇帝陵の造営などは、必要性に欠けた。
財政に負担をかけ、その人夫徴用から陳勝・呉広の乱が生まれたことからして、秦の崩壊の直接的な原因であるといえる。

始皇帝に先見性があり有能であったことは、始皇帝を嫌う人でも認めている。
始皇帝が非常に人材を好んだエピソードは韓非、尉繚子などに対しての話がいくつも残っている。
秦が崩壊した原因の一端は間違いなく始皇帝にあるが、
その一方でもし始皇帝がこの時代にいなければ、中国の統一は実現されず、分裂したまま歴史が進んだのではないかとも推測できる。

儒教を元にした伝統的な立場からは、焚書坑儒を行った始皇帝は悪逆非道であり、暴君の中の暴君と位置づけられていた。
しかし最近では、始皇帝はそれまでの封建的な世界を法の下に近代的な国家へと生まれ変わらせたとして、肯定する意見も出てきている。
それまでとはまるで違った社会を誕生させたのは、始皇帝の才能による部分も大きいのは事実であるとの評価もある。
漢が前漢・後漢を合わせて約400年続いたのは、
秦からの成果を(秦とは異なって)民衆の恨みを受けることなく受け継いだことによる部分が大きい。

とはいえ六つの文化背景の異なる国を統一した後の急激な中央集権化、
当時の官吏たちの資料から伺える厳格な法治主義、
統一まもない内からの大掛かりな造作などが、
被征服民のみならず自国の民衆の反感をかったことは事実であり、
始皇帝が伝統的イメージ程ではないにせよ、史上最も悪逆な独裁者であったことは事実である。
また、さまざまな厳しい法律の強化によって多くの民衆を虐待したのみならず、
自分のやり方に反対する者を誰として許さず、
自分を諌めた者たちに対して容赦ない仕打ちを加えたり、
焚書に関しても、秦を除く国々の識字層(=政治に預かる立場の人々)からの憎悪を招くこととなり、
彼らが秦を見限る要因ともなった。

中華人民共和国、建国後の中国では、
文化大革命発動後の林彪失脚を受けての批林批孔運動の高まりの中、
始皇帝、焚書坑儒を階級闘争であると規定し、讃美する論文が続出した。
魯迅も、始皇帝の焚書坑儒を、ナチスの焚書とは明白に区別しており、
肯定的に評価している。

天下ともに苦しみ戦闘は休まず、もって侯王あり。
宗廟に頼り、天下を初めて定め。
また再び国を立つるに、是の兵を樹つ、
しこうして其の寧息を求むるは、あに難からずや。

『史記』



西太后

西太后(せいたいごう)は、清の咸豊帝妃で、同治帝の母。清末期の権力者。
慈禧太后(じきたいこう、Cixi Taihou、ツーシー・タイホウ)、「那拉皇太后」、「西太后(Xi Taihou シータイホウ)」という。

紫禁城内における2人の皇太后の住む場所によって、
東太后(皇后、慈安皇太后、母后皇太后)、西太后(第2夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。
西太后は、下級官吏の貧しい家に生まれ育ったが、円明園の宮女となり、
たまたま通りかかった咸豊帝に、声と容姿が美しいことからみそめられ妃に昇格した。

「真珠美容術」

西太后が死ぬまで食べ続けた真珠の粉
西太后は、17歳で紫禁城に入り、27歳で未亡人となり、70歳になっても17歳の肌を保っていたという。
その秘密は、彼女が、毎朝目覚めると必ず服用する、不老不死の漢方薬と、
10日に一回食べる、銀のスプーンいっぱいの「真珠の粉」にあった、 と言われている。
真珠には、肌を白くする美肌効果があるとされ、美顔パックに使う他、真珠クリームなど、市販の化粧品も数多く作られている。
真珠粉は、美肌効果の他に、高血圧、口内炎、頭痛、不眠、眼精疲労などにも使われている。

当初は東太后と西太后が同治帝の後見として垂簾聴政を行い、
恭親王が議政王大臣として政治を補佐するという三頭政治であったが、
東太后は政治に関心がなく、実質的には西太后と恭親王の二頭政治であった。

東太后の死去と恭親王の失脚により、西太后は清朝において絶対的な地位を確立した。
1887年光緒帝の成年に伴い、3年間の「訓政」という形で政治の後見を行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。
1888年には自身の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇太后)に推挙している。

1908年光緒帝が崩御した翌日、西太后も74歳で崩御した。
西太后は死の前に溥儀を宣統帝として擁立し、
溥儀の父醇親王を摂政王に任命して政治の実権を委ねた。
しかし、西太后の死からわずか3年あまりで清朝は辛亥革命によって倒された。


続く