作家 黄金寅森(こがねとらもり)
天地人 直江兼続 を語る!
黄金寅森(こがねとらもり) 直江兼続(上)(下) 謙信から鷹山へ時代の懸橋となった男
等身大の「兼続像」を描き切る、義に生き、さわやかなまでのその生涯。新たな歴史文学の旗手登場!
黄金寅森さん
直江兼続(なおえかねつぐ)謙信から鷹山へ時代の懸橋となった男
@直江兼続(上巻) 黄金寅森 著作
義に生き、さわやかなまでの生涯であった直江兼続を見事に描き切った大河歴史小説。
仙桃院(謙信の姉)に見出された樋口与六は、景勝の近習として次第に頭角を現していく。
「御館の乱」を乗り切った二人は越後再統一を果たすが、中央の戦雲が忍び寄る……。
家康が恐れた男の波瀾と苦悩を新たな視点で活写する。
大河ドラマには現れない真実を見事に描ききる!
義に生き、さわやかなまでのその生涯。
2009年大河ドラマ主人公を英雄視することなく、義に生き、
後半生は民政に力を注ぐ、直江兼続の等身大の姿がここにある。
A直江兼続(下巻)黄金寅森 著作
家康が恐れた男の波瀾と苦悩を新たな視点で活写した大河歴史小説の完結編。
会津国替えとなった上杉家は、家康を脅かし、「直江状」によってついに戦端を開くが、戦いは幻に終わる。
兼続対家康の直接対決は実現しなかったのである。
そして関ヶ原の戦いの後、上杉家は謙信の遺体を入れた甕とともに米沢に入る。
石高が四分の一に削減されたとはいえ、上杉家は残った。
直江兼続の後半生は上杉家・米沢藩を盤石にするためにあった。
優れた民政家となるべく苦悩する兼続。
新たな視点で活写する大河ドラマには現れない真実。
文芸社◎定価(本体1400+税)
著者:黄金寅森(こがねとらもり)プロフィール
出身地:在住地ともに栃木県佐野市
学歴:高卒 職歴 転々
趣味:多種
ゴルフスコアは1ラウンド140くらい。(特別難しくないコースで)好きなクラブはパター。
唯一池ポチャをしたことがないクラブだから。
野球はニューヨークヤンキースファン。毎年世界一を期待している。
サッカーは水戸ホーリーホックファン。闘莉王の復帰を期待している。
自動車はホンダ党。愛車はストリーム。
自転車はブリヂストンのクロスファイア。
好きな場所は新幹線と別所線とつくばエクスプレスの車内。
夢はジャンボ宝くじで一等を当てること。
作家 黄金寅森(こがねとらもり)さん、NHK大河ドラマ「天地人」と、
著書「直江兼続(なおえかねつぐ)上下巻」の魅力を、大いに語る。
大山博行: さて、話は変わりますが、寅森さんの著書、直江兼続、上下巻の表紙を、横に並べると兼続のシンボルである「愛の文字」が出来上がりますが、
この本を、二冊同時に購入し、一気に、一日で、上巻、下巻を読みきり、二つの表紙をピタリと合わせることができれば、今一番の願い事、「愛が叶う」、
兼続の「愛の奇跡が起きる」という噂が飛び回っているようですが、これはすごいことですね、本当のことですか?
黄金寅森: 残念ながら、私は、これを一日で書き上げたわけではないので、事の真相は、分かりませんが、十分に期待できる内容だと思います。
大山博行: そうですか、私は読み終わってから、この話を聞いたので、一日1冊、2日間で、2冊、読みきりました。
黄金寅森: それは、とても残念でしたね。でも、兼続の「愛の文字」は出来上がっていますから、きっとよいことが起こりますよ、
大山博行: 期待します。 寅森さん、今日は、お忙しい中、よい話をありがとうございました。
(撮影場所:大山宗伯東洋医学記念館資料室、写真:松田朋子)
管理人 東洋医学記念館 WEB-PAGE.
NHK 大河ドラマ 「天地人」
直江兼続 「謙信から鷹山へ時代の懸橋となった男」
黄金寅森さん近影 2008年11/30(日)
黄金寅森 著作 文芸社 「直江兼続(上巻、下巻)」をよろしく!!!
付録
文武兼備の智将 「直江兼続」
永禄3年(1560)、越後国魚沼郡上田庄坂戸城に生れた。
父は同城主長尾政景長臣樋口惣右衛門兼豊、母は信州泉氏娘と伝えられている。
景勝は永禄5年頃、輝虎(後の謙信)の養子となったものと思われ、その後、兼続は春日山城の景勝の近習となったので
輝虎の影響もあって学問に励んだものと思われる。
兼続は開墾、用水、植林及び農業生産にも力を入れた。
用水のために李山地内で松川の水の堰止めて、南原、笹野等の用水とする猿尾堰をつくった。
堰近くに今も「龍師火帝」(りょうしかてい)と刻んだ大石がある。
この碑は横約2.9メートル、縦約1.8メートル、厚さ約1メートルの安山岩の自然石で「龍師火帝」とかご字で刻み、
その左に「梵字及び伝燈叟髄記之」と陰刻している。
これは兼続が堰をつくった時に水神及び火帝をまつり、用水不足することなく、水害のないよう祈祷したものと伝えられている。
農民に作物の栽培等の諸注意を示し、農業を励ませた「四季農戒書」もある。
兼続は天正16年(1588)4月、景勝のお供をして上洛した時、前の妙心寺住職南化玄興和尚に会って、
古文真宝抄(先秦以後宋までの詩文を集めたもの)21冊を借りて筆写した。
これをみた南化和尚は感心して兼続に序文を与え、その後、二人の交際は更に深くなった。
文禄元年(1592)、秀吉の朝鮮征伐の時、兼続は景勝に従って肥前名護屋に約2ヶ月滞在した。
その時、兼続は漢方医学の本「済世救方」300巻を一夜借りて手分けして筆写させた。
好学の人
当時わが国の学問の中心は、京都五山をはじめとする禅僧たちで、これらと親交を結んだ直江兼続は、
その学風を米沢に受け継ぎ、学問所「禅林文庫」を建てた。
元和四年(1618年)のことで、これがやがて藩校の創立につながった。
漢方医学(漢方薬・鍼灸)
京都の高僧南化玄興(なんげげんこう)から、『宋版三史(史記・漢書・後漢書)』(国宝)と同様に、
米沢善本として名高い『宋版・備急千金方』が贈られた。
漢方医学(漢方薬・鍼灸=東洋医学)の代表的な古典である。
秀吉の朝鮮の役に従軍中に『済世救方』300巻を筆写させた。
現存する『諸薬方書』『薬方抄』は兼続蔵書の写本である。
徳川家康が『群書治要』の編纂にあたり、兼続に協力を求めたといわれる
文武両道の人
江戸初期の儒学者、藤原せいかが「近代戦国の世に学問を好んだのは、
上杉謙信、小早川隆景、高坂昌信、直江兼続、赤松広通があっただけ」
と書き送ったことで知られている
兼続は慶長12年(1607)3月、「文選」31冊(梁の昭明太子編、中国の秦、漢、三国の代表的文章や詩を集めたもの)
を京都醒井通綾小路南、日蓮宗要法寺の活字で印刷させた。
これによって読書界に貢献したものである。
また、兼続は岩城の九山和尚と宇都宮で知り合って和尚に金を与えて下野足利学校で勉強させた。
終業後、米沢によんで米沢禅林寺の開山として迎え、禅林文庫を設けて、九山を指導者として藩士子弟の学問修業の道場とした。
これらをもって兼続は、米沢に学問尊重の種をまいてくれた恩人とみてよいと思う。
慶長9年(1604)9月、兼続は近江国住友村から吉川総兵衛、和泉国堺から和泉屋松右衛門という鉄砲つくりを米沢に呼び、
200石ずつ与えて、城下から約16キロメートル離れた白布高湯で鉄砲製造させ、10年間に約千挺製造させたと伝えられている。
また、鉄砲打ちの稽古も奨励し、年に何回か鉄砲打ちを藩主が御覧になり、成績の良いものに褒美を与えるようにもした。
米沢はこの後も鉄砲を重んずることとなった。
元和元年(1615)正月元旦、兼続、年56を迎え、歳徳神殿御宝前に
「天地和合の楽しみ、君臣合体の楽しみ、武運長久の楽しみ、子孫繁昌の楽しみ、祈願成就の楽しみ」
を祈願されたが、その年7月12日嫡子、平八景明は看病の甲斐もなく年22で病没した。
兼続は元和5年(1619)10月、病となり、名医の治療も、その甲斐なく、その年12月19日、年60で江戸鱗屋敷で病没した。
法名、達三全智居士(後に英貔院殿おくられる)という。
景勝は香典銀50枚を供え、将軍秀忠も銀70枚を供えた。
遺骨は高野山清浄心院の上杉家墓地の西隣に納めた。
墓は米沢徳町徳昌寺(現、長慶寺の所)につくられた。
資料提供 医学博士大山博行
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